新版 屠場
大阪・松原屠場で職人たちが熟達した技術で屠畜解体する場面を、迫力あるモノクロ写真で撮影した貴重な記録。全文に英語併記。
おすすめポイント
- ☑屠場への密着取材
- ☑ひとつひとつの重苦しい雰囲気と言葉たち
差別の歴史から普段、撮影や密着取材などが行われることが少ない「屠場」の現場 僕らが食べている肉のいのちとのつながり、そしてそれを加工している職人のかっこよさや、ありがたさ、こういうものがもう少し明るみに出たほうがよりよい世界になる気がする。そう思いながらずっと予約しようと思っても予約ができていない京都市食肉加工センターへの予約サイトをまた開いた。
新版 屠場
昔は「屠殺場」と言われていたが、「殺す」という言葉の持つ意味から「屠場」に言い換えられた。
今では「屠る」という文字も『殺す」の意味を持つため、「食肉市場」「食肉加工場」と名前が変えられている。これは働いている人の差別を減らすのに役立っているかもしれない。
ただ、僕ら一般消費者がスーパーに並んでいる肉を見たときに、どういった過程を経て生き物である豚が「肉」に変化したのかを巧妙に隠すことができるトリックのようにも感じてしまう。
「自動車の組立ラインと同じように、1頭の牛や豚が、枝肉、内蔵、原皮などの部位に分けられ、製品になっていく。」と食肉市場のパンフレットに書かれてある。 それはコンベア労働に分解された工場のことで、たしかにそこでは1頭の牛や豚の解体は、クルマの解体に似ていないこともない。
牛の解体、その前の命を落とす段階で今も「ノッキング」という手法が取られている。 これは牛の眉間に銃のようなものを当てて、そこから鉄の芯棒が飛び出す。これで気絶させられた牛の眉間に針金を刺して脊髄と脳が破壊される。 一瞬にして生が肉へと変わっていく。 このノッキングの過程を担当する人に著者が仲良くなった。
彼が蚊がたかっても決して叩かないことにぼくは気が付いた。手のひらでそっと追い払うのだ。たくさんのいのちと関わっている人だからの優しさなのだろう。 いつからぼくたちは、いのちが見えなくなったのだろうか。
差別の歴史から普段、撮影や密着取材などが行われることが少ない「屠場」の現場 僕らが食べている肉のいのちとのつながり、そしてそれを加工している職人のかっこよさや、ありがたさ、こういうものがもう少し明るみに出たほうがよりよい世界になる気がする。そう思いながらずっと予約しようと思っても予約ができていない京都市食肉加工センターへの予約サイトをまた開いた。