パンと昭和
“
コッペパン、あんぱん、ジャムパンーー身近にあるパンの数々。日本における「パン食」の歴史を解き明かす初めての1冊!
楽天Booksより引用”
おすすめポイント
- ☑日本でのパンの歴史を知りたいのなら外せない一冊
パンと昭和っていうタイトルから昭和期のパンの歴史についてのみかたるとおもうなかれ。戦後のアメリカの食糧支援によって欧米型の食事に慣れた日本人の食文化は今後ますます問題が増えていくから、どうしてパン食が始まってしまったのかという原因に焦点を当てて、パン食のみならず食全体への関心を広げていくための本らしい。想像と違った!でも想像の百倍おもしろい。日本の歴史が行ったりきたり、いろいろな登場人物が出てくる。って感じで読みごたえたっぷりの本。
パンと昭和
第1章 パンの始まり
パン食はハイカラとみなされた大正から昭和初期
-
製パン技術が大きく変わった
- パンに使用する酵母がイーストになった
-
機械化が進み、パン工場による量産化が進んだ
-
パンの一般的な普及はまだまだであった
- 戦前の日本で常食していたのは
- 都会の一部のインテリ層や富裕層
- ピクニックや遠足などのハレの日、病人食
- 依然としてパンはおやつや間食としてとらえられていた
- 戦前の日本で常食していたのは
製パン技術の3つの進歩
国産イーストの普及
- 1915年に田辺玄平が独自の乾燥酵母(マジック・イースト)の開発に成功
- 続々と国産イーストの普及が進んだ
- かつては日本酒醸造用の工事を用いた「麴種」か「ホップ種」であった
- 時間がかかるうえに品質も一定でなく、大量生産に不向きで職人が弟子へと時間をかけて伝えるものであった
- イーストによりパン作りが非常に簡単になり、製造時間も大幅に短縮できるようになった
手作業から機械製パンへ
- 大阪に阪急などの大規模製パン工場が4つ建設された
酸っぱいパンから、柔らかいパンへ
- イーストを使用することによりイギリス式の砂糖や脂肪の少ないパンからアメリカ式の多いパンへと製法も変化した
- イーストを使うため酸味が少ないうえ膨張してふっくらとした触感のパンができた
- さらに小麦粉も薄力粉から強力粉へと変わり始めた
いまだにハレの日の弁当やおやつ、病人食どまり
- 戦前戦後の製パン量をみると戦後はうなぎ上りであるが、戦前はほとんど横ばいである
- パン食は米食より高くついた
- パンは都会の贅沢食とみなされていて、実際に都会の一部の人はパンを食べていた
- 雑誌や小説ではコーヒーと間にキュウリやバターを挟んだパン、付け合わせに半熟卵などと書かれている
お弁当や行事食として
- パンはご飯に比べて保存がきき、軽くて携帯に便利なため弁当に使われることは多かった
- サンドイッチの彩や栄養、食べやすさも人気の理由だった
- 1899(明治33)年には鎌倉の大船駅に駅弁として🥪が登場している
- 婦人雑誌や料理本にもサンドイッチのレシピが紹介されている
病人食としてのぱん
- 消化の良さと栄養価から病人食としても人気だった
- 食べ方は食パンかゆ汁、食パントースト(牛乳に浸した食パンを焼き上からバターで半熟状に焼いた卵をかける)、浸しパンの黄金焼き、ジャーマントースト(フレンチトーストみたいな)、たまごサンドイッチなど
ロパのパン屋
- 1931年札幌市で創業したロバにひかせた荷車のパン販売
- 戦後1955年ごろから在来馬での「ロバのパン屋」が全国区に広まった
- 京都の「ビタミンパン連鎖店本部」は全国160店舗もチェーン展開した
- 高度経済成長とモータリゼーションでもロバのパン屋は親しまれており、京都や岐阜などの西日本数か所で営業を続けている
第4節 パンの嘗めもの、つまりバターやジャムのこと
- バターやジャムを食べるようになったのは明治時代のころ
- 初めは「嘗めもの(なめもの)」と呼ばれていた
- 先に明治・大正期にジャムの国産化、次いで昭和初期にバターやマーガリンの国産化も進んだ
- 戦後の品質向上と学校給食や食生活改善によってパン食の普及とともに全国に急速に展開していった
- 嘗めものの一般家庭への普及を導入期、転換期、発展期とする
- それぞれの作り手の品質向上への取り組みや啓蒙活動、家庭を取り巻く食生活の変化や受け取り方の変遷についてみていく
ジャムとマーマレード
輸入が中心の明治期
- 現在のジャムに使われる果物のほとんどは明治初期に入ってきた西洋種がもととなっている
- リンゴは1871年に明治政府がアメリカから苗木を取り寄せたことから始まった
- イチゴも西洋イチゴが大正時代にジャム用に栽培され始めた
- 初期は国産品の果物の収量、保存品質の低さから輸入品が主であった
- 1899年にジャムやフルーツなどの関税が3,4倍に引き上げられたことによって輸入品に対する競争御力が生まれた
国産ジャムの草創期
- 1905年に信州であんずの生産が盛んとなり年間を通じての生産が可能となったことでジャム製造者の近代化が推進された
- 戦前まではあんずジャムが圧倒的に多かった
- イチゴはやや値段が張るので酸味を抑えるために多くはリンゴを混ぜて作られた
- 木村屋総本店が1900年に初めて売り出したジャムパンも輸入杏子を自家加工したジャムだった
- ジャムの材料となる砂糖の国産化が本格化するのは日清戦争後の日本統治下の台湾だった
- 1900年に台湾精糖株式会社が設立し近代製糖が始まると一般家庭にも普及され始めた
- 1917年には手軽にできるジャムとして「イチゴ、うめ、水蜜桃 $^*$ 、リンゴ、イチジク、ブドウ」のジャムが紹介された
- 柑橘類の皮を原料とするマーマレードは昭和初期ごろから国産化が進んだ
- マーマレードはアヲハタ創業者の中島薫一郎が1932年に販売した
- 日中戦争以降の戦時体制下では砂糖やマッチが切符配給制になり、干しバナナや干し柿を刻んで水に浸しただけのものが代用ジャムとなった
- 以後砂糖の家庭用配給が停止され、果物も作付禁止となったためジャムやマーマレードはつくられなくなった
*水密桃: 白桃以前の品種改良前に普及していた桃、蜜のような果汁が水のようにしたたるおいしさ
バターと人造バター
バター
- 国内製造は米国からきたエドウェイ・ダンによる乳加工品指導からつくられ始めた
- しかしバターに日本人はなかなかなじむことができなかった
- 国産バターの生産拡大は大正末期、北海道内の小規模生産者の組合「酪連」(後の雪印)がが設立した
- 酪連は乳製品の知識・利用方法の啓もう・普及活動を積極的に行った
- ビタミンAを豊富に含むという健康食品との認識をPR効果によって芽生えさせた
人造バター
- 19世紀にフランスでバターの代用品、マーガリンが生まれた
- 日本に初めて輸入されたのは1900(明治33)年
- 初期は紫色の陽気に入っていたため「むらさきバター」と呼ばれた
- 1914年に帝国社の経営者の働きかけを受けて「人造バター」の国産化が進んだ
- 人造バターは安価であったが、栄養面で劣ったり粗悪品が出回るなど、バターの代わりでしかなかった
- 戦時中は戦況の悪化に伴い、魚油・鯨油が工業用に回されたため生産が縮小した
- 1950年の統制撤廃・自由化まで人造バター産業は低迷が続いた
マーガリンと学校給食
- 戦後マーガリンはバターを追い越して急速に普及した
- 学校給食が全国で実施されたこと
- バターとは異なる商品として品質向上した人造バターは「マーガリン」として位置づけられたこと
学校給食とマーガリン
- 1950年に完全給食が全国に拡大実施された
- バターに比べて栄養面で劣るためビタミンAなどを添加した「強化マーガリン」が導入された
- 195年から1人ずつに配れる個包装タイプのマーガリンが文科省から求められた
- 他にも夏は溶けやすいので融点を高く設定するとともに味が感じにくいため塩を多めに使うなどと工夫がこらされた
- 学校給食にジャムは必要でないとするのが文科省の立場であったが、強化ジャム、低糖度、無着色のジャムが登場した
マーガリンと改名
- 1952年に人造バター工業会はマーガリン工業会へと名称を変えた
- 当時のマーガリンについて以下の要望があった
- 栄養や原料ではなく味に注目するべき
- 乳志望ではなく安い原料の油をおいしくするのに意味がある
- 古いものの流通を防ぐために品質の有効年月日をはっきり表示する
第2章
代用食の自家製パン
- 日中戦争から太平洋戦争の間は米不足が深刻化し、代用食としてパンが推奨された
- 簡単に作れる蒸しパンが中心であった
- パン食を推奨した理由
- 食糧安保上
- 栄養改善目的のため
- 軍事上、邦人にパン食の習慣を形成しておくため: 炊飯は火を炊くため敵の標的となるうえ、飯は熱帯で腐敗しやすく艦隊で凍結するため
- 海外発展を見据えて
第3章 食糧援助で始まったパン食
第4章 広がるパン食
- 戦前は米騒動を機に、戦後は配給小麦の委託加工パンを機に大規模製パンが創業している
- 1952年に製粉の「委託加工制度」から「原料買取制度」に変わった