西洋美術鑑賞

著者: 秋元雄史
読んだ日: ()
本の価格: 1760
出版時期: 2018-10
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厳選名画をヒントに、西洋美術の「革命」がわかる。ルネサンス、印象派、抽象画、ポップ・アートまで。現代を生きる大人の新しい必須知識!「この絵、いいね」以上が語れる。
楽天Booksより引用

おすすめポイント

    西洋美術鑑賞

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    アートの知識は社交界で非常に重要性の高い教養となりつつある。 例としてはAppleのスティーブジョブズがカリグラフィーを学んでいたことが後のiPhoneのデザインにおいて重要な役割を担ったことや、前澤友作氏がジャン=ミシェル・バスキアの作品を123億円で購入したことなどがあげられる。

    NFTでもアートがビジネスとして現代の最新技術とともに活用されている例も記憶に新しい。

    知的教養人は必ず知っている西洋美術史

    西洋美術を知識として知るためには「継承の歴史」よりも「革命の歴史」を知るべき。 その歴史・テーマごとにあった知識で芸術を楽しむほうが100倍よい。

    宗教画

    フランス語で再生を意味するルネサンスが起こる以前の美術はほとんどが宗教画であった。

    宗教画は文字が読めない人でもキリスト教の教えがわかるように描かれたものであった。

    ほとんどが教会によって描かれ、型にはめられた技法が使われていた。

    ルネサンス

    フランス語で再生を意味するルネサンス キリスト教以前の古代ギリシャ・ローマの文芸に立ち返ろうとする試み。

    14世紀のイタリア、西洋美術史における「近代の始まり」と位置付けられる時代。

    • イスラム圏との交易が盛んになり、異文化に触れる機会が増えた
    • 富が蓄積されていた
    • 年ごとに経済が発展し、文明も急速に発展した
    • 知識の源流である古代ギリシャ・ローマの文化を知識人たちが探究するようになった
    • 絶対的権威であった教会が十字ぐ年生の失敗やペストの流行などで揺らぎ始めた

    神を中心とする世界観から、人間を中心とした世界観に変化したルネサンス p.21

    代表作

    • 《最後の晩餐》《モナ・リザ》レオナルド・ダ・ヴィンチ 後世のすべての肖像画に影響を与えた天才の作品。 - どの角度から見ても鑑賞者をまっすぐに見つめるようなモナ・リザの表情の描き方は当時は画期的 - 遠景にあるものほど形態をぼかして描いたり、色彩をより大気の色に近づけたりしながら、空間の奥行きを表現している - ルネサンス期によく用いられた乾きの早いテンペラ画ではなく、乾きの遅い技法を用いた - 肖像画の基本が背景をイメージとして描く手法や、やや斜に構えたポーズとなった - モデルに関しては未だ確定されておらず、今でも”謎”が見るものを楽しませてくれる

    • 《最後の審判》ミケランジェロ 作品のテーマは聖書をベースにしたものではあるが、以前までは人間の裸を書くことがタブー視される風潮があった中でありのままの姿を描いたために、物議をかもした。

    当時は黄金と同じくらいに貴重であった鉱物ラピスラズリを原料にしてつくられたウルトラマリンを壁画の背景前面に大胆に使用できたのも教会の強大さを物語っている。

    • 《アテナイの学堂》 ラファエロ ヴァチカン宮殿「謁見の間」にローマ教皇ユリウス二世が描かせた大壁画。

    ある一点(消失点)に向かって、奥行き方向の線がすべて向かうよう放射状に描かれる p.53 一点透視図法が用いられた。 この構図が発明確立されたのはルネサンスになってのこと。

    絵の中のプラトンはダヴィンチを、ヘラクレイトスはミケランジェロをそれぞれモデルにしたといわれている。 ルネサンスを代表する三人の中でラファエロは最も若く、彼自身もダヴィンチとミケランジェロを尊敬していたことがうかがえる。 これは、絵の中のモデルだけでなく画面構成もダヴィンチの《最後の晩餐》を、群像の中の人物表現を《最後の審判》を参考にしていたことからも見て取れる。

    市民社会と物語性の誕生 バロック

    16世紀はルターの宗教改革によるプロテスタントが起こった時代。

    免罪符によるサン・ピエトロ大聖堂の修復を行うカトリック教会の腐敗から人々の教会批判が高まった。

    プロテスタントでは偶像崇拝が禁じられたため、教会のための絵画ではなく、貴族のために肖像画や風景画が描かれるようになった。

    代表作はフェルメール《牛乳を注ぐ女》

    《牛乳を注ぐ女》フェルメール

    明るい光が差し込む窓辺で牛乳を冬季の容器にそそぐ明度と思われる女性。 17世紀のオランダのありふれた女性の日常の一場面を切り取ったリアルな作品。

    永遠に時間が止まったかのような静謐な印象は、まるで写真を見ているかのようなリアリティ p.72 遠近法を正確にとらえたこの作品はカメラ・オブスキュラというピンホール現象を利用して実際の光景をキャンバスに転写して下書きに用いる手法を用いたと考えられている。

    しかしながら、この作品をすぐれた作品としているのは正確な遠近法や場面スナップだけではなく、フェルメール自身の色彩表現のセンスである。

    窓から差し込む光の柔らかさ、女性が被っているキャップの糊のきいた亜麻布の質感、陶器からこぼれるミルクの輝き、これらはフェルメールの卓越した技法によるもの p.74

    特に光の表現はポワンティエ(点綴法ーてんせつほう)というコントラストの弱い部分にコントラストの強い点明るめの同系色を載せることで光の反射を強調する手法がとられている。

    歴史

    当時のオランダでは16世紀後半にスペインからの独立後はオランダ東インド会社のようなアジアとの交易により莫大な利益を得ていた。

    このためにオランダには裕福な市民が多く生まれ、彼らがパトロンとして画家を支援し、家に飾る作品を依頼するようになっていった。 このため協会が好むようなサイズやモチーフではなく、市民の好む小さめのサイズ、かつ風景画や静物画、風俗画といったジャンルが発展していった。

    この作品のメイドのエプロンもウルトラマリンで描かれていることから当時の豊かさを感じ取ることができる。

    一方のカトリックでは権威回復のために宗教画をより芸術的に、劇的に表現することで人々の心に訴えようとする機運が高まり、異なる美術様式が盛んとなった。

    「芸術=美」の終焉 写実主義

    バロックまでの西洋美術はイタリアを軸として展開されてきたがバロック以降はフランスが表舞台となる。

    ルネサンス以降、作品の質や作家の地位の低さでイタリアの後塵を拝していたフランスですが、王立絵画彫刻アカデミーを設立し、フランスが芸術の中心地になる端緒を開きました。 p.26

    ルネサンス期はルイ14世の絶対王政の下、ヴェルサイユ宮殿のような国王の威光を賞美する芸術が展開されてきた。

    ルイ15・16世の時代では強権的王政から解放された貴族による、軽やかで女性的なロココに移行した。

    フランス革命語のナポレオンの時代になると、新古典主義となり、その後の荒れ狂うフランスの政治下では戦争や事故、異国情緒を感情的に描くロマン主義が台頭した。

    19世紀後半の産業革命でフランスにも鉄道や電信網といったインフラ整備が進み、凱旋門を中心とした有名なアベニューが広がる現在のパリの街並みと近い都市構造が完成した。 このように

    一気に近代画化進み、ブルジョワジーが増える半面、人間関係のゆがみや売春婦の増加など、人間の「陰」の部分もより顕著になっていった。 p.26

    古典主義では理想化された世界や人間を描いてきたが、クールベやミレーを代表とする写実主義は現実世界を正確に客観的に描こうとした。 これによって「芸術の対象=美」という図式は崩れ去った。

    代表作

    《世界の起源》クールベ

    クールベの世界の起源は内容がないようであるだけにいまでも話題に事欠かない作品の一つである。

    目に見えないものは書かないという超、現実主義のクールベらしく、見えるものをありのままに描いた作品。

    表現から

    《世界の起源》といううなずかざるをえないタイトルは後世に付けられたもの。

    当時は女性の裸体は神話や歴史などの口実なしに描くことを許す風潮はなかった中で生々しく女性の局部を描いたクールベは非常に前衛的であったといえる。

    裏側から

    この作品は展覧会などに出品されるために書かれたのではなく、絵画コレクターが部屋に飾るために依頼されて描いた作品であり、注文主のオスマン帝国の外交官ハリル・ベイもいつもはカーテンをかけて絵を飾っており、親しい友人にだけ見せていたといわれている。

    《オランピア》マネ

    クールベと同時期に裸婦のタブーを侵したものの、この作品は展覧会に出品されたためにパリの絵画界に大きな議論を巻き起こした。

    この作品が大きなスキャンダルを巻き起こしたのにはいくつもの理由がある。

    • モデルが娼婦であること
    • 性交の象徴である黒猫が描かれていること
    • 絵画技法にも問題があること がその中でも大きな理由である。

    とくに絵画技法に関しては、

    ルネサンス以来、絵画の常識とされてきた立体感をつけるための印影がなく平坦な印象を与えます。娼婦と召使の大きさにも遠近法でいえば狂いがあります。 p.88

    この作品が書かれたのはナポレオン三世の第二帝政のもとで急速にパリの近代化が推し進められていく中で貧富の差など新たな社会問題が浮き彫りになっていた時代である。 当時のフランスでは女性は妻になるか娼婦になるかしか選べないといわれるほどで、こうした暗い現実に目を向けた作品でもあった。

    絶対的権威からの自由 印象派

    写実主義と同時並行で生まれたのがもう一つの芸術様式が印象派である。

    印象派の由来はモネが展覧会に出品した作品《印象、日の出》を批評家ルイ・ルロワが「単なる印象でしかない」と批判したことから名付けられた。

    印象派はフランス美術の絶対的権威であった王立絵画彫刻アカデミーやサロン・ド・パリ(官展)とは独自にそれぞれが表現方法を模索していったことによって出来上がったため固有の共通点があるわけではない。 しかし、描く対象が太陽の光によって違った印象を受けることから自らの網膜に飛び込んでくる一瞬の印象をキャンバスに表現することが共通していた。

    ゴッホやゴーギャン、セザンヌなどのポスト印象派は視覚的リアリスムよりも自由な視点で感情や世界観を表現した。

    ポスト印象派は後の現代アートにも大きく影響を与えた。

    代表作

    • 《印象、日の出》モネ
    • 《ひまわり》ゴッホ
    • 《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》ゴーギャン
    • 《サント・ヴィクトワール山》セザンヌ

    《印象、日の出》モネ

    モネが幼いころから家族と暮らしていたノルマンディ地方の港に、朝もやの中、太陽が昇る一瞬の光景を描いたもの。

    モネにとって絵画の対象は自らが感じた感性であった。

    印象派の人々は印象を形作るのは太陽の光の役割が非常に大きいと考え、色彩分割法という多様の光を構成する7色のスペクトルを混ぜることなくキャンバスに並べていくという手法をとることによって自然の光の明るさを表現した。

    浮世絵が当時の印象派の画家らに影響を与えたというよりもむしろ、浮世絵に刺激されて印象派が生まれたというほうが正しい

    印象派が生まれたのには文明の進歩の役割も大きかった。 以前は風景画を描く際は屋外でのスケッチをもとにアトリエで作品を制作していた。 しかし、19世紀半ばにアメリカでチューブ入りの絵の具が考案されたことで屋外で絵筆を握れるようになった。 他にもカメラの普及により肖像画の依頼が激減したことでリアルさよりも自分の感じたままに描く印象派が台頭することにつながった。

    こうした時代のさまざまな変化が絵画史に大きく影響しているのを知るのも非常に面白い。


    《ひまわり》ゴッホ

    日本にあこがれていたゴッホは1888年にパリから南フランスのアルルに移り住んだ。

    ゴッホがポスト印象派といわれ、それまでの印象派と異なるのは色彩を光の表現だけでなく、感情を表現するものと考えたことである。

    ゴッホは売れない作家として生涯を終えた。彼が今では絶大な人気を誇るようになったのはアンブロワーズ・ヴォラールという画商の慧眼があった。

    ヴォラールはゴッホの精神科の主治医だった、フェリックス・レーが、鶏小屋の穴をふさぐために使っていた作品をコク乳したことをきっかけに、ゴッホの作品を集めてやがて回顧展を開きました。それをきっかけにゴッホの評価が一気に高まったのです。 p.105 彼はセザンヌを「近代美術の父」にまで押し上げ、ドガ、ゴーギャン、ルノワールなどといった今では著名な画家を当時から支援したことでも有名である。


    《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》ポール・ゴーギャン

    原題(フランス語: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)

    作品のタイトルは、ゴーギャンが子供の頃に読んだ、キリスト教の協議を解いた問答集にある三つの問いに由来するとされています。 p.108 この三つの問いそれぞれに右側から左側に流れるように答えているとされている。 また、背後に描かれている青い偶像の彫刻はこうした命ある人間を超える存在して描かれている。

    ゴーギャン自身が、ゴッホとの耳切事件での別れからタヒチへ渡るも病気や貧困で苦しみ、フランスへ帰るも妻や愛人に見放され、再度タヒチへと渡った中で最愛の娘の死を知り、失意の中で自身の遺作かつ最高傑作として描いた作品。

    ゴーギャンは反印象派の立場であったといわれる。 感じたままに見たままを描くのではなく、想像を加えて抽象を抜き出そうとした。


    《サンド・ヴィクトワール山》ポール・セザンヌ

    セザンヌのこの作品にはキリスト教の教義や印象派のような見たままの世界、ゴッホやゴーギャンの精神性もない。 しかし絵画史においてこの作品を無視することはできない。

    本作品の特徴は

    • 色彩で光だけでなく形を表現している
    • 対象を抽象的に描いている
    • 多視点で描かれている である。

    彼の描く対象の本質をとらえ、対象と同等の価値を絵画に再構築しようとする姿勢は後のアートに大きな影響を与えた。

    写真の登場により絵画の役割が強く問われることとなった中で、彼は「絵画は絵画のためにある」と訴え、絵画の構成要素である色と形を探究していった。

    色彩による感情表現 フォーヴィスム

    ポスト印象派の中でもセザンヌの「絵画とは『色と形』の芸術である」という新たな解釈を探求した作品はとくに後世に強い影響を与え、20世紀の画家たちは色と形の表現をより深く追求していった。

    彼らの中でも特に色彩表現にこだわったのがフォーヴィスムの画家である。 「フォーブ」はフランス語で「野獣」を意味し彼らの鮮烈な色彩を表現するための荒々しいタッチから批判的な評論家によって名付けられた。

    対象の物体を正確にとらえようとすると理論先行となってしまいがちであるなかで感情表現を優先した描き方は非常に鮮烈であった。

    代表作

    緑の筋のあるマティス夫人の肖像画》

    《緑の筋のあるマティス夫人の肖像画》

    明るい色と暗い色を同時に協調して使うことにより、夫人の印象やマティス自信が感じた夫人の内面を表現しているのです。 このような現実離れした色使いや、被写体のデフォルメ、遠近法を使わない平坦な画面や洗いタッチは、当然、当時の絵画の常識から大きく逸脱していたため、批評家から激しく攻撃されました。 p.124

    このころの画家らは絵画史の流れや伝統的な絵画手法を学び、自らの立ち位置を俯瞰的に理解したり見つけ出そうとしたりしていた。

    1900年にパリ万国博覧会が開かれ、「フランス美術100年展」 で新古典主義から印象派までの3000点もの絵画や彫刻が展示された。 この企画展を訪れた画家らは絵画の過去を振り返ると同時に新たな芸術の種を探す絶好の土壌を見つけたといえる。

    その中でも特にマティスが、自分が感じたままの色彩で対象を表現して色彩を現実から切り離したことは後の絵画にさらなる自由をもたらした。

    形態の革命 キュビスム

    キュビスムが生まれたのは20世紀初頭、帝国主義が台頭し欧米諸国に植民地などからの世界各地の品物が集まってきていた時代。

    キュビスムは「形態の革命」または「立体派」といわれるようにあらゆる対象を幾何学的図形に還元して描くものであった。

    感情よりも理論先行であったといえる。

    20世紀の初め、ジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソによってはじめられたものですが、ブラックやピカソがキュビスムに目覚めたきっかけは、セザンヌが「多視点」で作品を描いたことでした。 たとえば、ある女性を描くのに、正面からとらえた部分と、横からとらえた部分絵御融合させて、一人の女性像として描く、というようなものです。 二人はそれをより推し進めて、より複数の視点からの眺めを、平面上に合成して表現するため立方体、つまりキューブで対照を表現しようとしたのです。 p.33

    この二人はやがて親交を深め、互いに刺激しあいながらキュビスムを進化・確立させていった。

    代表作

    《アヴィニョンの娘たち》ピカソ ブラック レジェ グリス ヴィヨン ドローネー ピカビア クプカ

    《アヴィニョンの娘たち》ピカソ

    この作品はピカソが「青の時代」や「バラ色の時代」を経て1907年にパリで完成させた作品。 モデルとなっているのはスペイン・バルセロナのアヴィニョン通りで働く5人の売春婦。

    今でこそピカソの作品の中でとがっているようには思えないものの、当時はピカソのモンマルトルの仲間らが気が狂ったのではと心配したほど独特であった。

    この作品には遠近法や明暗、立体感はほとんど無視されている。 物事の本質をとらえるためには多視点で対象を見る必要があり、本質を絵画で表現するために立体を緻密に分析したうえで平面上に落とし込むキュビスムという考え方の原点ともいえる作品である。

    キュビスムはピカソが唯一、師と仰いだセザンヌの多視点的表現の影響が大きい。

    また、当時はフランスでも帝国主義が高まり各地で植民地を広げていた。 特にフランスではアフリカからもたらされたエキゾチックな美術品がブームを巻き起こした。 ピカソもアフリカの原始美術の影響を受けており、それが《アヴィニョンの娘たち》の右2人の女性の顔にも現れている。

    内面への探求 表現主義

    表現主義も20世紀初めにドイツやオーストリアで盛んになった時代特有の表現を排して人間の内面に主眼を置くとことを主眼とした芸術運動とその画家らのこと。

    世界の火種に近づく可燃性の大国間競争や近代文明社会に対する不満・不安がよく表現されている。

    表現主義の画家たちは、モネのように目に見える外界を再現することよりも、目に見えない自分の内面的な感情や主観的な意識、あるいは感じ取った世界観を「表現」することに重きを置きました。 p.35

    表現主義の画家に共通していたのは感情や主観を表現しようとする意識であり、表現方法には統一的な様式は見られないため、画家ごとの個性が反映されているといえる。

    代表作

    《叫び》ムンク

    《叫び》ムンク

    原題は 独: Der Schrei der Natur(自然の叫び)。 叫んでいるのは「自然を通り抜けていく無限の叫び声」であって絵の中の頬に手を当てている人は叫んでいるわけではないことは作者本人が言っていることであり、多くの人が誤解している。 つまり、絵の中の人物は突然聞こえてきた幻聴に恐怖や不安を感じて立ちすくんでいるのだ。

    この絵が描かれた19世紀末は科学の急速な発展による生活環境の変化についていけない人々が自己喪失感や強迫観念を常に感じていたために多くの人に受け入れられたのだろう。 こうした時代の急速な変化による不安は原題にも通じるところがあるのだろう。 絵を見ると、私たちも絵の中の人物のような不安に襲われるような気持ちになってしまう。

    モチーフからの自立 抽象絵画の始まり

    20世紀初頭に世界各地で発生したのが実在のものや神話などをモチーフとして再現することをやめて精神的な対象・空想または、世界観や宇宙観、大自然の摂理や理念を表現しようとする動き。

    とくに前者を「自己表現的抽象」 後者を「幾何学的抽象」と呼んで区別することもある。

    「自己表現期抽象」はゴッホに始まる感情の表現を抽象的にしたもので、「幾何学的抽象」はキュビスムの流れを汲む、表現の単純化が究極の形にまで進化したもの p.38

    代表作

    《赤、黄、青と黒のコンポジション》モンドリアン 《白の上の白い正方形》マレーヴィチ

    《赤、黄、青と黒のコンポジション》モンドリアン

    オランダ生まれのモンドリアンはもともとは伝統的な写実主義者であったが、キュビスムに感銘を受けパリへ移った。

    キュビスムを深く追求するうちにキュビスムの展開では純粋なリアリティへの表現には達しないことと考えキュビスムの先へ、つまり対象の情報を極限にまでそぎ落として抽象化させていった。

    この作品は何か具体的なものを抽象化したものでもないため作品に意味はない。彼はこの世界がどうあるのか、つまり世界のリアリティを追求した結果を描いているのである。

    彼が何を言っているのかはわからなくても、この作品を見ても世界の極限がどうだかとかあんまり考えなくても落ち着くという人は多いだろう。 それはこの作品が私たちが普段目にするものの多くがそうであるように、垂直と水平の線で構成されているからである。

    《白の上の白い正方形》マレーヴィチ

    この作品もさきのモンドリアンの作品同様、なにかを対象に描いているわけではない。だが、モンドリアンの作品が世界のリアリティを追求しようとしたのに対し、この作品は「自立性」のある絵画の追求のためにいっさいの世界の物事から分離した絵画、つまり対象のない絵画なのである。

    マレーヴィチはロシアに生まれモスクワで美術を学んだ画家であった。 芸術の盛んなパリから地理的に離れた場所で美術を極めることによって、印象派やセザンヌ、マティスやピカソといった前衛的な作品を客観的にとらえることができた。 加えて、当時のロシアではロマノフ王朝が倒されたロシア革命の直後であり、芸術を含むすべてのものが既存のものから一新する必要があるという風潮にさらされていた時代。

    このような時代において彼は「シュプレマティスム」という発想にたどり着いた。 「シュプレマティスム」は日本語で「絶対/至高主義」といわれるような考え方であり、「対象のある絵画というものは対象物に縛られることで不自由さから逃れられない。絵画が何物にも依存せず自立性をもつには対象を排した作品ではなくてはならない」と考えるに至ったのである。

    この考えに至った彼は以前までの自分の作品すべてすら否定することにつながったうえで、結果的に白の上に白い正方形が配置されるという表現をとった。

    絵画とはなんなのか、対象すらも排して表現を追求するまでに至った絵画史の流れや、対象を排したという状態をどのようにして表現することの難しさについて考えながら作品を見ると単純な絵画ですら無限に楽しむことができてしまう。

    ルールなきルール エコール・ド・パリ

    キュビスムやフォーヴィスムが盛んとなる一方で主流から外れた場所で独自に表現活動をしていた、パリに集まる世界各地の外国人画家らの総称。

    彼らは、特定の政治思想を持つことや、新たに起こった芸術運動に加わることなく、日々、自由気ままに暮らしながら、それぞれの出身国の民族性を色濃く反映させた絵画を描きました。 p.39

    貧しい暮らしを送る彼ら同士が交流することでさらなる刺激を受けてそれぞれ個性的に成長していった。

    代表作

    《横たわる裸婦と猫》藤田嗣治 レオナール・フジタこと藤田嗣治が好んでモチーフとした「猫」 | MUTERIUM

    《おさげ紙の少女》モディリアーニ

    《横たわる裸婦と猫》藤田嗣治

    19世紀末、明治半ばの日本で生まれ晩年にはフランス国籍を取得したレオナール・フジタはエコールド・パリで最も成功を収めた画家である。

    フジタが描く女性の乳白色の肌にはえもいわれぬ魅力があり、それに魅せられたピカソは3時間も絵の前に立っていたといわれるほどであった。 彼の乳白色の技法は長い間謎であったが、長年の研究から

    硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵の具を使っていた。(中略) さらに2011年には、フジタが乳白色の肌を実現するため市販のベビーパウダーを用いていたことも明らかになりました。 p.162

    藤田は東京美術学校の西洋画科で絵画を学んだが、渡仏した際に日本の美術の遅れを感じ、今まで学んできた「黒田清輝流の印象派」から学んできた作風をすべて捨てることを決意した。

    第二次世界大戦時には日本への帰国を余儀なくされ、戦時下では陸軍美術協会理事長として中国や南方戦線で戦争画を描いた。しかし終戦後に藤田を待っていたのは自ら保身のために藤田に責任を押し付けようとする日本美術界の裏切りであり、GHQに協力した藤田に対して日本美術界はさらに「国賊」「欧米に魂を売った」「美術界の面汚し」として追い打ちをかけるように批判した。

    藤田はそれらに反論することなく日本国籍を捨てフランス人レオナール・フジタとしてフランスへ渡った。 彼に言わせれば日本を捨てたのではなく、日本に捨てられたのだという。

    日本でも海外でも少数派としてさらされてきた彼はその81歳の生涯をフランスで終えた。

    《おさげ紙の少女》モディリアーニ

    イタリア、リヴォルノでスペイン系ユダヤ人の一家に生まれ、フィレンツェの美術学校に通ったアメデオ・モディリアーニ。 彼はシエナ派の古典芸術やミケランジェロなといった故郷イタリアの芸術がベースとなっていた。

    《おさげ髪の少女》はパリではなく持病の結核を療養するために訪れた南仏ニースでであったが少女を描いたといわれる。 やや上下に引き伸ばされた少女の顔や体といった表現は彼の画商であったポール・ギョームが扱っていたアフリカ彫刻の影響によるものとされている。

    彼の作品のほとんどが人物画であり、風景画は4点のみ、静物画に関しては一切見つかっていない。 彼の人物画の特徴は無表情で首や顔、胴体が細長く、黒く塗りつぶされたアーモンド型の瞳である。

    モディリアーニはキュビスムに否定的であり、「キュビスムはあくまでも『手段』であり、『生』を問題にしていない。抽象は人を疲れさせ、ダメにする。袋小路だ。」と抽象画にも魅力を感じなかった。 1908年ごろにルーマニア出身の彫刻家ブランクーシと出会ってから、絵画よりも彫刻に情熱を傾けるようになったが、石像彫刻はコストがかさむうえに制作時に出る粉塵が持病の結核を悪化させた。

    彼の短い35歳の生涯はパリで異端として孤独や貧困、持病に苦しむ闘いの人生であった。 現代では彼の作品はピカソに次いで高額で取引される画家であり、2018年5月にサザビーズ史上最高額の1億5720万ドルで裸婦画が落札されるようになった。 彼の存在が広く知られるようになったのは、モディリアーニの才能を信じ作品を集め続けた画商ギョームの存在も大きい。

    既成芸術の否定 ダダイズム

    第一次世界大戦が世界に与えた衝撃と同時に「美」といった価値観だけでなく人間が持つすべての価値観を否定・破壊した中に無作為の美を見出そうとする動き。

    代表作

    《泉》デュシャン

    オリジナルは焼失したが1950年代にデュシャン監修のもと17点のレプリカがつくられ、そのうち1店が京都国立近代美術館にも所蔵されている。 原題は英:fountain、日本では「泉」として知られているが、噴水という訳のほうが近いという意見もある。

    どちらにせよ、ただただセラミック製のダイン西洋小便器を上向きに置いただけのものと言ってしまえばそれで終わりなのだが、そこにアート的な価値について考えさせたのがデュシャンである。

    この作品は現代アートの出発点として今日でも様々な人によって多角的な議論・研究がなされている。

    デュシャンは芸術を「目で観賞する美しいもの」から@芸術に対する考え方」へと変えた。 これ以降は「どうして芸術であるのか」といった問いに答えるような発想をもって作品を作るように、芸術家自身の意識の根本にすら大きな影響を与えたのだ。

    「無意識」の表現 シュルレアリスム

    第一次世界大戦終結によって勢いを失ったダダイズムから派生し、フロイトの精神分析という新しい理論を取り入れながら人間の深部に触れ、積極的にそれを表現しようと試みた。

    代表作

    《記憶の固執》ダリ 《都市の全景》エルンスト

    《記憶の固執》ダリ

    この作品の大きな特徴である「溶けた時計/柔らかい時計」は妻であるロシア人のガラ・エリュアールがキッチンで食べていたカマンベールチーズが解けていく様子からインスピレーションを受けたと語られている。

    ダリは「偏執狂的批判的方法」という2つの異なるもののイメージが無意識に重なって見える状態を表現する手法を確立させた。絵の中央に描かれた不思議な生物はダリの多くの作品に登場するものでダリの自画像を表している。 一説には白い生物は常に目を閉じて眠っていて、夢を見ているとされている。

    自分の無意識から湧き出てくるイメージ、自分自身の深層心理を描写した作品。 これにはフロイトの心理的な裏付けの大半が「無意識」にあるとする学説が土台となっている。

    他にも「デペイズマン=異なる環境に置く」という手法も用いられており、モノがあるべき場所や形・色ではないはないときに鑑賞者におどろきとともにこれまでの常識や固定観念を拭い去ったまっさらな思考回路・感覚を呼び起こすことを狙っている。

    この手法とシュルレアリスムの組み合わせとして有名な画家がルネ・マグリットやジョルジョ・デ・キリコなどである。

    《都市の全景》エルンスト

    マックス・エルンストは絵画におけるシュルレアリスムのパイオニア的存在である。

    彼の代表的な作品がこの《都市の全景》シリーズである。 エルンストは潜在意識に無限のイメージがあると考え、無意識を作品に引き出すために偶然性に頼った。 あくまでも偶然性は無限のイメージからインスピレーションを与えるものであって、偶然性かに細かな調整や習性を加えたモノを作品としている。

    激情的表現へ 多様化した抽象絵画

    第二次世界大戦後のアメリカで絵画史上初の前衛芸術運動「抽象表現主義」が起こった。

    20世紀前半のキュビスムの流れを汲んだ幾何学的抽象が「冷たい抽象」と呼ばれる一方で「抽象表現主義」が「熱い抽象」と呼ばれるように両者は全く異なっている。

    アクション・ペインティングを代表とするように身振りや行為に訴える表現を特色とする。

    代表作

    《One Number 31,1950》ポロック

    《空間概念・期待》フォンタナ

    《One Number 31,1950》ポロック

    アメリカ抽象表現主義の旗手ジャクソン・ポロックはアクション・ペインティングを確立させた。

    彼はキャンバスを立てかけるのではなく床に置いたキャンバスに周辺からさまざまな塗料を飛ばしたり滴らせたりすることによる無意識の動きによるアートを求めた。 キャンバスの四方から描くスタイルは従来の構図や軸などを根本から覆す書き方であった。

    こうした作品の楽しみ方はすこし難しいかもしれないが、ポロック自身が、

    「抽象画というものは、音楽を楽しむように味わえばいいと思います。しばらくして、それを好きだと思うかもしれませんし、あるいは思わないかもしれません。しかし、だからと言って過度に深刻になることはないでしょう」p.197

    ポロックがこうした前衛的で自由な作品を公開し人気に火が付いたのには当時のアメリカの自由主義的な風潮が追い風となった。 当時のアメリカでもっとも影響力を持っていた美術評論家、クレメント・グリーンバーグが「アートは結果よりもプロセスが大事」「芸術はすべてアヴァンギャルドでなければならない」と主張し、政治とは切り離された抽象的で自由な表現方法が確立・保証されたアメリカを象徴するものとして広く認知・受け入れられた。

    《空間概念・期待》フォンタナ

    イタリアを代表する前衛芸術家、ルチオ・フォンタナはキャンバスに切れ目を入れた作品自体をアート作品として提示した初めての画家。

    イタリアミラノで芸術活動を行った彼は周囲のものと「空間主義」を提唱した。 彼は絵画の閉鎖された空間を超えて無限の広がりを、宇宙にまで結びつく空間を持つようなアートを表現しようとした。その中で一つの表現手法がキャンバスに切れ目を入れる手法であった。

    彼の作品《空間概念・期待》は生涯で1000以上のシリーズがつくられている。 どの作品も日本語では同じ名前となっているが、現代のイタリア語では期待を意味するAttesaが切れ目が複数の昨比んではAttesaの複数形であるAtteseとなっている。このことから題名の”期待”は切れ目そのものを意味しているといえる。

    大量消費社会の批判 ポップ・アート

    第二次世界大戦後のアメリカの大量消費社会文化を根底にした芸術。 1960年代になるとクールなミニマル・アートやエコロジーなランド・アートにとってかわった。

    《マリリン・モンロー》アンディ・ウォーホル

    謎の死を遂げた人気女優マリリン・モンローの他界から五年がたった1967年、モンローの主演映画「ナイアガラ」のスチール写真をもとに様々な色で大量に版画で印刷をしたものを芸術として唱えた。 彼はほかにもキャンベル・スープやコカ・コーラなど、有名かつ簡単に手に入れられる商品をモチーフとして作品化した。

    「人が美術作品として買うなら、それは美術作品だ」として芸術かどうか決めるのは干渉する側の立場であるのではという立場をとり、アートとは何かをさらに私たちに問いかけるような作品をいくつも作り出した。

    しかし、別の見方もできる。ウォーホルがこうした大量消費できるものをアートとして提唱したのには資本主義社会の大量生産・大量消費への批判や、富裕層や特権的立場絵はなく大衆のためのアートを目指したというとらえ方もできる。